昭和47年01月13日 朝の御理解



 御理解 第2節
  「先の世までも持っていかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は信心すれば誰でも受けることができる。みてるということがない。」

 信心修行させて頂くというのは、ここ一点に私は絞ることだと思うですね。信心の修行というものは。先の世までも持っていかれ、この世にも残るそれは神徳じゃ神徳は信心すれば誰でも受けることがでける、みてるということがない。いうならこれは、ね、信心を治めると、信心を頂くと。信心を分からせてもらうと。ここんところに信心修行の修行の全てがかけらるようになったら、それが真の信心というのではないでしょうか。いわゆる真の信心というのは、いわゆる本当な信心ということ。
信心というのをそのすぐご利益と結び付ける、信心というのをすぐこのおかげという、と結びつける。それで信心がいつまでもこうすっきりしない。おかげ頂くから信心する。おかげ頂かなかったら信心せん。この御理解第二節そこんところをもう本当に信心のいわゆる本当の信心のいわゆる眼目になるところをすっきりと、この様な表現で教えておられる訳です。ね、信心をすれば誰でもおかげが受けられると教えてない。信心をすれば誰でも受けることがでけるのが神徳だ。
 しかもみてると言う事がない。ね、信心とはその私共がおかげという、おかげという、ご利益というものといつも関連しておる。繋がっておるだから結局修行しよるけれども、おかげ頂かなければならんから修行をしておる。ね、お徳を受けお徳を受ける修行なんだ。信心とはお徳を受ける修行なんです。ね、信心が身に付いてくる。信心が血肉になる。中々それは別にこれが血だ、是が肉だと分かりませんけれども。ね、
 それはそうですね、例えばお花ならお花の稽古をさせて頂いてもです、成程段々上達してくる、上達してくると言う事は、所謂そのお花の形だけではなくて、ならどういういうなら気品というかね、そういうものがでけてくる「 ? 」なんの稽古でも同じ。只上達その稽古をしておる事を修行する事によって、それが上達していくと言う事は、その矢張り信心を稽古させて頂く。自分自身のいわば心が段々有り難いものになっていく。所謂自分の心が段々和賀心を所謂和賀心として頂いていけれるようになる。ね、
 ですから信心のこのおかげというのは、それの付録の様なもんである。おまけの様なもんですおかげは。所がそのおまけの方の付録の方だけを狙いとするなら、信心はもう全然進まない事になります。所謂ま一生懸命お願いを致しますから、おかげは受けるに致しましてもね、それがその徳になって行くと言う事はない。あの世にも持っていかれこの世にも残ると言うた様なものになっていかない。神徳を受けるのでなくて、おかげを受ける。ね、お互いが信心の修行さして貰わにやいかん。ね、
 それがもしあの、おかげというものが先行したらそれは信心の修行にならんです。どこまでも信心の修行でなからにゃいかん。その信心の修行というのは、ね、誰でもが受けられる。しかもみてる事かないほどしのご神徳が受けていかれる、そういう信心を信心とここで言っておられる訳です。信心すれば、ね、信心すれば誰でも受ける事がでける。ね、おかげを頂かなければならぬ。ね、ですから一生懸命参っておるというのは、それはどういう事でしょうかね。
 一生懸命例えば修行しておるのは、おかげを頂くために修行しておる訳です。(笑)ね、だから信心がひとつも神徳が受けられるはずがないです。もうおかげの方に吸い取られてしもうとる、修行が。だからそういう信心には二面がある訳です、ね。おかげを受ける為に修行をする、信心を頂く為に修行をする。も、そこんところ大変な違いになってくるんです。例えばこれは金光様のご信心だけじゃないですけども、もう他の信心だってお徳を受けると申しますから、そうでしょうが、ね。
 どのくらい沢山な人が信心ておるか分からんのですけれども、んなら誰でも受けられると仰るのに誰でもが受けとらんでしょうが。ね、だからその事実をですね、私共がこう見極めてさせて頂いて、ね、信心すれば誰でも受ける事がでけるみてるということがないというほどしの神徳を受けるね。所謂信心を頂く修行をしなければいけない。ね、難しいようですけれどもね、そこが分からんとです、教祖様が嘘を仰ることになるのです。ね、信心すれば誰でも受けられるとこう仰。
 けれども信心、それは信心をするために修行する、これは修行を抜きにしたら駄目ですよね。どんなに信心しとっても例えばその、その事の修行ということは稽古ということ。ね、一生懸命稽古しなければ、お花ならお花でもです、おんなじ松の木なら松の木を切るでもです、同じようなその松の木は繰り返し、繰り返し例えば生ける稽古をさせて頂いとるうちにです、自分のそれこそ思い以上に綺麗に生けあげていく事がでける、稽古なんです。信心もそうです。ね、信心の稽古をしなければ。ね。
 所謂信心の修行をしなければいけない。ね、まあこういうといかにも何ですかね、皆さんがっかりする方もありましょう。冗談のごつ毎朝こげん眠か、寒かつばお参りできよるたい、おかげ頂きたいばっかり参ってきよると。成程そこからみんな始まるのです。ね、おかげ頂かんならんひとつの願いを立てて、この願いがいっちょどうぞ成就する事の為に一生懸命参ってきよる。だからおかげの為に修行しよると言う事ですから、それはおかげは受けますよ。ね、けどもそれはどこまでもおかげの為の修行です。
 でしょうがだから神様はおかげはやんなはったっちゃお徳は下さらん訳です。もう私はここ大事な所ですからいっちょうね、だからそういう信心からね、そういう信心からひとつ本気で信心の修行をしようという気にならにゃいかん。ね、その本当に信心の修行をでなからんとです、あの世に持って行けないのですよ。この世に残しておけんのですよ。家繁昌子孫繁昌、親の代より子の代、子の代よりも孫の代と本当におかげ頂きたいという願いを持つなら持つほどです、信心修行せにゃいけませんです。ね、
 そしてその信心修行がです信心修行が、ね、でけていうならば、ね、お花の稽古がひとつの花なら花を繰り返し繰り返し、四季四季に咲く花を様々に取り入れてはそれを受ける稽古をさせて貰うてです、ね、その花が見事に活けあげる事がでけるように、ね、信心修行というのはどう言う事かというとね、その自分の心をね和賀心を目指してです、もう全ての事を有り難く有り難く受けていく稽古をする訳です。信心修行ね、それが繰り返し繰り返しお参りもしなければならない、み教えも頂かなければならない。ね、
 頂いたみ教えを本気で行じさせてもらい、所謂稽古さしてもらう、行じさせて貰う。そこから不思議に自分のその心の使い方というものが、いうなら自由自在に有り難い方へ有り難い方へと使っていく事がでけるようになる。いよいよ和賀心を目指す。ね、お互いね、だからその自分自身のそのわが心というものが育っていくから昨日の御理解からいうと、ね、おかげは和賀心にあり、そういうおかげこをそが、いよいよ血肉になっていくのであり、身になっていくのです。ね。
 その和賀心に対するところの付録のようなもの、おまけのようなもの、いうならば信心が伸びていく、太っていくからおかげも伸びていく太っていく。もうこれは絶対の理なのです。それをなんぞや、ね、おかげはひとつも育っていきよらん。ね、それは和賀心が育っていきよらんから、おかげが育っていきよらん。ね、只そん時そん時におかげを頂くために修行をしよる。所謂おかげの修行をしよる。おかげを頂く修行をしよる。ね、ですからそん時そん時のおかげだけにしか過ぎない。
 信心する者の所謂信心の実体というものは、育っていきよらん。信心修行をしないから。だからそれをね、すっきりと切り離してしまうという訳にはまた、参りませんのです。ね、私共やっぱり、願わなければ?おられないことばっかりです。実を言うたら、痛ければ痛い、痒ければ痒い願わなければなおられません。ね、ですからその痛いなら痛い痒いなら痒い事を通してです、ね、信心を分かろうとこういうのです。
 ただ痛いとを治して下さい、痒いのを治して下さいというだけの信心に、止まってはならないということなんです。そういう信心をすれば、誰でも受けられるのが神徳であり、しかもそれは、限りない神徳に触れて行く事がでける。お互いひとつ、信心修行をしてるようであって、信心修行をでけていないと言う事をです、ひとつ検討してみなければいけませんね。自分の信心修行をこれは自分は、おかげ頂くための修行だなぁと、そすとそれはおかげ修行です。ね、ご利益修行です。それではあの世に持っていけるような、この世に残しておける様なものは、頂かれません。ね、
 ここんところの思い方をですね、本当に信心修行、信心修行ということにが、いわゆる先行するというかね、信心修行ということになってくるとですね、どういう事になるかいうと私、昨夜のご祈念の後の御理解に聞いてもらったことなんですけどもね、欲がでてまいりますね。ね、いわゆる素晴らしい欲なんです。ね、もうばからししてね、裏と表のある生活なんかでけんです。ばからしかもん。もうどげんなっとんしてお役にたたなきゃおられないという心がつのってくるです。
 どげんかしてもお参りしなければおられん、それこそ一つでも余計み教えを頂かなければおられないと言う事になってくるです。もう本当に信心修行するとそうです。ね、とてもご祈念しながら居眠りどんしよったらばからしか、欲が出てくるです。大体その信心のね、意欲というものがでけて参りますと、安心ですね。例えば教えによっても。これはまあ、師匠と弟子という場合であっても。ま例えてここの修行、いま学院に行っとります末永さんどんの場合なんかは、も、どこにおいとったっちゃ安心です。
 もう信心を本当ーに頂かんならんと思っとりますもん。
 こうして帰ってくる時でんこの人だけですよ。も、このくらいの金光様もですね、毎日お届けをすると毎日包装紙に包んでくる。たった一体下げて下さる。もう普通裸で下がるんですね。全部けれども末永さんだけは必ず一体だけど包んでくるこんなにたくさん。今度も帰ってこんなに沢山持ってくる。ね、私がここから修行生に対して五千円ずつ送ってやるです。なぁにもあちらいりませんからね、学院が全部持ちますから。ただその小遣いを。だから小遣いというものの全てがね、お初穂になっていきよる。
 もうとてもそうせにゃおられんとです。ばからしか訳です。これは、信心を頂きよるということの印です。「 ? 」時頃です、そりゃ居眠りかぶり、あんた眠り癖が付いとるとじゃないね、ちいうくらいにもう、お広前に座ったらあの居眠りますけどもね、もうとにかく神習する。例えばなら、あの帰ってきとってももう他ん事しません。ここ座っといてから、私のお取次をずうっとこうやってもう見とるです。見とるうちに「 ?」その精神がね、人間ですから眠りもしましょう。
 けれどもですたい、もうそうしなけりゃばからしい訳です。ね、ですからね、こうなると神様も安心です。本当に信心に意欲がでけてまいりますと。けどその信心がですよ、今言う、おかげを頂かんならんからの意欲だったら、あのこれはたいした事ありませんよね。このおかげを頂かんならんからもうそれこそ一生懸命修行するというのでなくてですね、信心を頂かなならん、修行が分からなきゃならない、ね。
 とてもその何て言うですかね、疎かな事でも本当にばからしかという事を解りますから、師匠もその弟子に対してはもう安心。神様もまたその氏子に対しては安心。けれどもそれはおかげの方が目指してあって、修行しよるとするならおかげ修行しよるならですたい、おかげをやらんと信心、その生き方を間違ってくる。ね、神様に不平不足を言う様になってくる。そしておかげを頂かんともう信心、おかげ修行そのものもだれてくる。神様思う様に氏子が願う様なおかげだけやられる訳にもいかんですからね。
昨日ある方が、朝のご祈念に参ってきて帰らして頂いた。それで息子も一生懸命勉強いたしております。試験に取り組んでおります。特に心配ないから帰ってからすぐ電話かけた。息子のところへところが熱発して寝とったとこういう。だからそれでもやっぱし試験を受けに行きよるけれども、もう今度の試験はまぁいうならしだごだやったという様なことをま、いった。ね、ところがそん時にそれを聞かせてもらってからです。御神米を頂けという事を忘れておったからというて電話をかけてきた。
 私も本当にいうならば、子供が勉強が一生懸命でける事の為にお父さんが一生懸命参ってきとるのだから、しかも朝のご祈念に参ってくる、修行までさして頂きよるのだから本当いうならば日頃は体が弱かったっちゃ試験の時だけは元気がようなからなんていう訳です。ね、かえって、ところが大体そういう事でも平気で言う人ですけどもね、その事をひとつも?といってないですね。思ってないんですね。所謂成程おかげも半分だけれども、信心が分かっていきよる。
 昨日の御理解頂いた後に、もう僕は一週間お参りしてきますけれども、一週間あの居眠り半分で分からなかったけれども、今日の御理解頂いてから一週間もと取ったように思いますというて帰った。その帰ってすぐだった。ね、そしたらね、私がご用受けておる時、教祖様お知らせ下さるのに、滝がばーっと落ちよるとこ頂いた。ね、滝といえば、いわば水といゃお恵みと仰る。しかもお恵みが落ちておる事がおかげなんだ。今度の試験も落ちるほうがおかげだという事なんです。ね。
 落ちた方がおかげなんです。そう仰せられる。それがおかげだけが目的であると、これだけお願いしよったのに落ちたということになるのです。ね、だからそういう時にです、例えば本当にそのおかげである事をです、おかげとして頂けれる心を何時も頂いておかなければいけん訳です。いわゆる信心修行さして頂くという事は、自分の心にこれだけお願いしよるお取次頂いておる事であるから惟はおかげと頂けれる心なんです。もう自由自在に全ての事をおかげとキャッチでける心なんです。
 それが信心修行。そこでならおかげ修行であったらどうなるでしょうか。けどそれだけで何時ものような信心であったら、先生こんな時こがしこ修行しよるとにかえってこげなこつどんなっとりましたと言ったら、なんとなしに不平がましい事言うでしょうが。ところがその電話かけてきた目的は、そのあっそうかと電話切った時に御神米ば頂いたかということを、または頂けと言う事を言わなかった事が、心に掛るから電話をかけて来てきたわけである。ね。
 もうおかげを頂かんならん修行もしよるけれども、信心の修行がでけておるから、そういう受け方がでけてきよるね、心がね。これはね、私はもうおかげの世界のことですけれども、もうお願いをしお縋りをしておかげは頂かんのは絶対ないのですよ。昨日は富永先生が夫婦で正月から初めてのお礼い参拝してきましたが、もう本当に私共長年金光様のご信心を頂いておって、合楽にご縁を頂いてお取次をさして頂く要領が分かった、とこういう。それはどういう事かというと親先生がいつも絶対といわれる。
 断言されるそれをね、おかげを頂いて私もそれを絶対といい断言して、お取次をでける様になったと言う事はもう実に楽だとこういうさぁ私しゃこげんおもうがの、じゃなくてね、絶対おかげになるだから非常に簡単なんです。ですけどもただ今申します様にそのおかげになるという事がです、ね、どうぞ例えば試験がでけますようにというてでける事もおかげならです、場合にはそれよりももっともっと素晴らしい意味合い、働きを持って落ちる事を持っておかげであると言う事が、ね。
 それが事実ある訳なんです。ね、ですからそう言う所をです。その場でどうしてじゃろかじゃなくておかげを頂けれる様な心をいつも頂いていく、だから絶対なおかげになってくる。例えばその事を今日はいわなくてもよいけれども今の事をまぁ解り易く言うとね、あの広島のあの原爆がの時にやっぱ試験です、ね、もうそれこ学校の先生はそこの高校に通らん筈はないち、もう太鼓判押すほどしに日頃でける人が、でけなかったんです。どうしてじゃろうかと。
 まいうごたったけれどもなら場末の私立の高校にやらせて頂いた。その年原爆であった。その高校は全滅であった。ね、さ後でそして分かるのではなくてです、はぁあん時落ちたのもおかげじゃったと、そん時どうしたじゃろうかというとったんじゃお徳にならんとですよ。そりゃおかげだけにつながるだけ。ハァーこげな命拾いしておかげ頂いたとだけしかならんのです。
 けれどもお願いをしておって、信心の稽古ちいうのはその事なんです。お願いをして右と願っとったのが左になっとった、こりゃあ神様の働きに間違いはないと、自分の心をいわゆる自由自在に生けあげていくとこ喜びに、ね、有り難いという心に生けあげていく事をさせて頂いておるとです、ね、それもいわゆる信心、神様はだんだん分からしてもらい、神様を信ずる力も強うなってきて、ね、神様の働きに間違いはないと信ずるところに、おかげを頂いて有り難い。それは落ちても有り難い。
 いうならより有り難いというような心が、もうそれこそ自由自在に使えるようになる稽古をするのが信心の修行。そして後で考えてみてです、おかげはちゃんと伴うておるです。なるほど神様は命拾いをさせて下さったというおかげはこりゃもうついておる。けども信心というのは落ちたその時にです、おかげと頂けれる心なんだ。信心とは信ずる心と書いてあるでしょう。お願いをし、お取次を頂いてから、現れてくる、それがおかげ。信心、信心すれば誰でも受けることがでけるというのが神徳。
 しかもその神徳はみてると言う事がない。それはあの世に持っていけ、この世にも残しておけれる。私共願いとする所の、ね、自分の代よりも子供の代、子供の代よりも孫の代とおかげの頂いていけれる様な信心を、私共は修しておかなければいけない。修行しておかなければならない。所謂本当の信心修行しとかなければならないという事です。ね、信心修行、例えばおかげを頂かにゃならんから毎朝朝参りをしておる。
 これを今まではやっぱそれを信心修行というてきたけれども、今日はそこんところを分けて申しましたですね。それはおかげ修行だとこういう訳。私共はどこまでも信心修行でなからにゃいかん。その信心修行させて頂くから、そういう信心です、信心とは信ずる心。そういう信心になら誰しもが、ご神徳を受けることがでけるというのである。おかげということ関係がない。それでいてもおかげというものは信心が育っていくから、これにかげが伴うかげというものは、ね、太ればおかげも太ってくるだろう。
 伸びればおかげも伸びてくるのである、そこんとこをひとつここんところをね、本当にそこんとこが分かってまいりますとです、信心に意欲が出てまいります。そして本当お広前ごたるとよかばってん、家に帰ったらもう乱れるといったようなことがないはず、ことになってくる。ばからしかですもん。いやかえって人見えんところ、かえって家帰ってからの方が大事にせにゃばからしいです。ね、そのくらいにです、ね、意欲が出てこなきゃ信心修行はでけません。
 本当に信心修行さして頂くと、そこに意欲が出てくるです。?ならば家でもうとこういうですけどもね、それはあなたはおかげ修行ばっかりしよるということになるのですよ。家に帰った方がもっと大事にしなければおられないという人であってこそです、本当の信心修行しとる人だという事になります。だから先生もそういう信者に対してはもう安心。神様も勿論安心して下さる。ね、神様と信じ、ね、合えれる、ね、先生と信じ合えれる、ね、それを私は交流と思うです。
ね、私はもう皆さんもご承知でしょうけれども、もう本当にお話が下手なんです。もう特に挨拶ちなんかちいゃ、もうみんなたまがるぐらい下手なんです。結婚式のごたる時に挨拶せんならんでしょう。もうそういう挨拶がもうたまがるごと下手なんです。もう出らんです、言葉が。どうしてこげん私話が下手なんじゃろうかと自分で思うです。ね、けれどもんなら私がひと度御理解を皆さんに聞いてもらうごとなったら限りがないです。ね、もう本当に限りがないほどお話が出てくるです。
 ですから結婚式なら結婚式の時でもご信者さんばーっかりがここで、披露宴なんかの時にはもう挨拶じゃなくて、私の場合御理解ですから出るです。それは私と皆さんが交うておるからです。ところが交うていない人がそこに居ったらですね、いわゆる信心のない人達が居るともうお話が出ない、何故って交流してないからです。ね、社交辞令というような事申します。もうこれ私全然でけません。ね、どっちかというと自分の心にもない事をいうことはもう嫌で嫌でたまらんのです、私は。
 だから信心のない人との話はもう本当に自分で不思議なくらいでけません。けどもひと度んなら先生といい、ね、例えばんなら私を信じてここに通うて下さる方達の上ならなんぼでも話がでけるでしょう。どうして先生あげん話なさるじゃろうというくらいにでけるです。自分でも不思議なくらい。それは交流するからです。ね、神様と私の場合私共の場合でも同じ事です。ね、いわゆるおかげ修行では交流しません。信心修行になってまいりますと神様と本当に交流するようになります。ね、
 だから信心生活がありがたい、いゃ信心生活にならなければばからしいことになってくるんです。神徳は信心すれば誰でも受けることがでける、みてるという事がない。ね、そういうみてる事がないほどしの神徳が頂けれる信心を、この御理解二節では教えておられるという事になります。おかげ修行、そうにゃ、ね、例えば何十年ちゅうてお参りをしたというてもです、ね、あの世に持っていっておらん証拠に、またはこの世に残しておらん証拠に後の信心が絶えてしもうたり。
 おかげが反対になっていくという様な事実は、いわゆるおかげ修行ばーっかり何十年続けてござったということになるのですよ。ね、信心修行させて頂けば誰でも受ける事がでけるのが神徳。しかもそれが限りなくみてるという事がない。限りなく頂いていけれるね、そこんところが例えば先の方がその様な違いになってくるのですから私共がひとつ本気で信心修行さしてもらわなければいけんと思うですね。
    どうぞ。